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  • 執筆者の写真Boo de 風

真理の鎮痛剤

更新日:2023年3月21日


先日、このブログで初めてアウグスティヌスにふれ、『告白』という有名な古典からの引用をもとに「真理に対する人の在りよう」について書いてみました。


今日は、同じく「真理」をキーに『告白』より。


聖アウグスティヌス『告白(上)』服部英次郎訳、岩波文庫、第9巻第12章「母の死を悼む」29~31節より


わたしの母が息を引き取ったとき、少年アデオダトゥスはわっと泣き出したが、わたしたちみなに制せられた泣き止んだ。これと同じようにわたしの子供らしい感情も涙に捌け口を求めたのであるが、若者の衷心からの叫び声に制せられて沈黙した。母の葬いを慟哭と嘆息をもって取り行うことは、ふさわしくないと考えたからである。このようなものをもって見送るとき、人びとはたいてい、死にゆくものの不幸をを悲しむか、あるいはその絶滅を嘆くのがつねである。しかし、母は死んでも不幸ではなく、また絶滅したのでもない。このことは母の日頃の生活の保証によって明らかであり、また「偽りのない信仰」と確実な理性的根拠とによって、わたしたちの信じて疑わないところであった。


それでは、わたしの胸を刳るように痛ませたものは何であろうか。それは母といっしょに暮らすというこの上なく甘美で貴重な習慣から、突然引き裂かれるために受ける新しい痛手ではなかったであろうか。・・・・・わたしが母にささげた敬愛と、母がわたしのために尽くした奉仕とは、比べものになるであろうか。こうしてわたしは母の大きな慰めから見放されたのであるが、わたしの魂は傷つけられ、母のとわたしのと一つになっていた生命は、いわばずたずたに引き裂かれたのであった。・・・・・そしてこの真理の鎮痛剤によって、わたしはあなたのみが知られたわたしの苦痛を鎮めたが、かれらはそれに気付かずに、わたしのいうことを熱心に聞いて、わたしが少しも悲しんでいないと考えた。しかし、わたしは、あなたの耳にむかって、それはかれらのうち誰も聞くことはできなかったが、わたしの感情の弱さを叱り、わたしの悲哀の情を抑えたので、その流出は少しく堰きとめられた




『告白』は、4世紀終盤にヒッポの教父、アウグスティヌスによって記された古典でありますが、引用した内容は、愛する人との死別に際して現代に生きる私たちの胸に押し寄せる感情そのままではないでしょうか。


若かりし頃の(救いがたい)放蕩生活を経て回心に至ったアウグスティヌスは、当時すでに2段階以上のイニシエートだったようです。(ベンジャミン・クレーム著、石川道子訳『マイトレーヤの使命』参照)

自身の数々の苦い経験を踏まえた教父の言葉は、私の心に突き刺さります。


最愛の人との死別に伴う苦痛を鎮め、パラダイムの転換を果たしたものは、真理の鎮痛剤であったということ。

当然、位相はまったく異なるものの、この言葉が表す内容に強く共感致します。

そして、その思いは「『ホワイトマジック』をグリーフの視点から読む会」の原動力になっていることは間違いない。

この会が真理の鎮痛剤にならんことを!

そんな希望を頂き、今日もまた一歩。




さぁ、今日も空を見上げてまいりましょう!



みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!


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