昨春より、アリス・ベイリーの著作を少しずつご紹介しております。
グリーフから出発し、人の生き方、人生の在りように視線を向けたそのずっと先におわすのは神。
つまるところ、それは「真理」の探究の道であり、「その道を共に、しかしそれぞれに歩んでいきましょうよ」といういざないということもできましょう。
さて、そんな流れの中での今日の記事。
このブログにおいて、初めてアウグスティヌスをご紹介させて頂きます。
アウグスティヌスは、西方教会にとどまらず、西洋思想そのものに深く影響を及ぼした古代の教父であり、ベンジャミン・クレーム著、石川道子訳『マイトレーヤの使命』によると、当時、すでに2段階以上のイニシエートであったようです。
418年に開催されたカルタゴ教会会議では、アウグスティヌスの「原罪論」と「恩恵論」の要点が西方教会の正式な教理として採択され、その神学が西方教会の教理の本流となって現在に至っています。
今日は、長きにわたり多くの読者を得てきた古典、『告白』からのシェア。
聖アウグスティヌス『告白(下)』服部英次郎訳、岩波文庫、第10巻第23章34節より
しかしなぜ「真理は憎しみを生み」、真理を述べ伝える「あなたの人」がかれらの敵となったのであるか。かれらは幸福な生活を愛し、しかもそれは真理に対する喜びにほかならない。その理由はかれらが真理をつぎにような仕方で愛するからである。すなわち真理でないあるものを愛する人びとは、かれらの愛するそのものが真理であることを欲する。そして、かれらは欺かれることを欲しないから、かれらが誤っているということを承認しない。
そんなわけで、かれらは自分たちが真理として愛しているもののために、真理を憎むのである。
的を射抜かれ、クラクラするような…そんな透徹した言葉です。
自分がよしとしていることを真理と思いたいがゆえに、かえって真理に背反していく。
自分が真理として愛しているもののために、かえって真理を遠ざける。
その思いが強ければ強いほど、真理は自分から遠ざかって行ってしまうわけです。
真理に対する人の在りよう。
ぐうの音もでないとは、まさにこういうことでしょうか。
若かりし頃の数多の経験(やらかしてしまったあれこれや、愛する人たちとの死別)を経て回心に至ったアウグスティヌスが、生涯をかけて徹底的に探求したのがこちら。
悪とは何か?罪とは何か?
今日は、そんな古代教父が残した言葉をシェアさせて頂きました。
みなさんは、どのように捉えましたか?
そして翻って現在。
混沌としている社会において、「自分の真理」をどこに据えますか?
古代の教父からの投げかけを、鏡を通して考えてみるというのもあり、かも。
みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!
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