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  • 執筆者の写真Boo de 風

キリスト愛。

更新日:2021年2月24日


今年初の投稿に、「キリスト愛」という言葉を載せました。

2021年1月1日から3日連続で撮影した写真を改めて見直したところ、今年は愛の年、それもキリスト愛の年だなぁと感じたためです。

今日は、キリストの生涯における象徴(誕生、洗礼、変容、磔刑、復活)を通して5段階のイニシエーションについて書かれた秘教文献からの引用をご紹介させて頂きます。


アリス・ベイリー著『ベツレヘムからカルバリーへ イエスの生涯に見る、イニシエーションのプロセス』

第7章 私たちの当面の目標-王国の建設 345~348頁


極めて必要なことは、キリストが与えた簡潔で根本的な教えに立ち返り、兄弟を愛するようになることである。愛とは感傷的で情緒的な意識状態ではない。それは、愛すべき人々の進化段階と性格の発達状態を考慮に入れるが、どのようなことがあっても、真実を見て、真実を見ているため賢明に行動できる愛である。


覚えておくべき重要なことは、私たちが神を神の愛として認識できるのは、私たち自身が根本的かつ潜在的に神と同じ特質を持っているからであるということである。このこと自体が一つの問題である。なぜなら、私たちに内在する神性が多少なりとも目覚めていないならば、愛を正確に解釈することは難しく、まだ人間になる途上にあり、多くの場合、かろうじて人間になったばかりである大衆にとって、愛の真の意義を理解することは不可能だからである。


・・・・・魂とのこの明確かつ意識的な接触を達成するためには、熱誠家は自らが経験している苦難を通して従順を学び、また愛するという課題も実践しなければならない。これは容易ではない。そのためには、訓練が、弛まぬ努力と苦闘が、日々の磔刑を意味する自我の征服が、そして目標から決して目を逸らさずに目的と前進と方向性を常に意識している周到な注意力が必要である。この過程の素晴らしさは、義務と責任の場から少しも離れる必要もなく、私たちが置かれている状況で、今ここで進展できることである。


新約聖書では隣人愛と兄弟愛の色調が強く語られている印象があります。

しかしその「愛」というものは、一般的にいわれている「愛」とは位相がまったく異なるということがこの引用からわかります。

そして、その愛の真の意義を理解できるのは、自身の梯子をしっかりと昇っている人であるということ。

このハードルの高さは秘教においては常ではありますが、それにしてもいつもひたすらに畳みかけられてしまう私です。

しかし!道を歩むと決め、実際にそうすることは、特別な寺院に入ったり山奥で修業を積んだりせずとも、今、自分が置かれている場所で進展できることだと。

だから、諦めることなかれ!

(弛まぬ努力と苦闘を覚悟しさえすれば・・・ですが。)



そして、今日最後の引用です。

前掲書、259頁


 私たちは極めて重要な全体に関心を抱いているであろうか。私たちは人類の繁栄を本当に重要と思っているであろうか。私たちには全体のためにすべてを犠牲にする気があるであろうか。これらは個人としての熱誠家にとって重要な質問であり、自分が何をしようとしているのかをはっきりと理解しようとするならば、答えられなければならない質問である。


みなさん、この質問にどのように答えますか?

今日は、この質問を開いた状態で終わりにいたします。

この質問。

これまた折しも今年初の記事に載せた内容と通底しているような気がいたします。

当然、自分自身に対する問いかけでもあります。


まずは自分が動くこと。

動かずに風は吹きません。

みなそれぞれが自分自身の風を立たせ、いずれそれがつながり合い、関わり合って風神となり、世界を変える底力となりましょう。

自分自身の風を立たせるために、何を志向し、今日何を目指し、今何をしますか?


前回の記事に掲載したこちらの写真。

特にこの写真からインスピレーションを得て、今日の記事につながりました。


そしてもう一枚。

こちらも前回の記事に付した写真なのですが、「この写真にも十字架を感じる」とおっしゃって下さった方がいらっしゃいました。

なるほど…。私は水面の清らかさにばかり気をとられていました。

そういった意味で思い込みを外してくれた写真です。



みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!



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