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ドグマ。

執筆者の写真: Boo de 風Boo de 風

先日の記事で、宗教的なドグマからの解放について私見を述べてみました。

(私は、教義というよりも、独断的な押し付けのような意味合いで、ドグマと言う言葉を使用しました。)

その流れで久しぶりに『人類の問題』から引用し、「教会の問題」について今日からシリーズで書いていこうと思います。

折しもクリスマスシーズン。

年内に終わるのか、年をまたぐのか…わかりませんが、ふと思いついたので即実行。


ではまいります!


アリス・ベイリー著『人類の問題』第五章 教会の問題、128頁より。


 この章の表題が示しているのは宗教の問題ではなく、次のような人々と組織の問題である。つまり、宗教を教えようと試み、自分たちが霊的生活を代表し、人間の魂による神への霊的アプローチを方向づけ、霊的生活の規定を定める者であると主張する人々や組織の問題である。このようなテーマについて書くことは危険地帯に足を踏み入れることになる。

 宗教精神に関して筋の通った論争は存在しない。宗教精神は存在しており、地上での豊かな真の生活にとって不可欠なものである。信仰が時代を超越したものであり、霊が数え切れない時代を通して神の事実を証明してきたことを私たちは認めることができる。キリストは今なお生きており、世界の人々を導いている。彼はこれを『神の右手』(象徴的な言葉)と呼ばれる曖昧な遠く離れたセンターからではなく、彼が永遠に愛する人類のすぐそばで行っている。「おお、私は世界の終わりまでずっとあなた方と一緒にいる」と言ったとき、彼は、言った通りのことを正確に意味していた。人間の霊によるその源へのアプローチ、そして神性が支配する霊的なセンターへのアプローチ、このアプローチを導き方向づける方々へのアプローチは必ずや進行するであろう。道は永遠に巡礼者に開かれており、このようなすべての巡礼者、すべての魂はやがて父の家に辿り着くであろう。

 神の事実、キリストの事実、神性への人々の霊的アプローチの事実、霊の不死性の事実、霊的機会の事実、人間と神、人間と同胞との関係の事実-これらを私たちは拠り所にすることができる。また、真理の提示のされ方は進展するものであり、それが歴史上のどの時期においても常に人類の必要に適合されて行くことも重視すべきである。

 キリスト教は、創造された宇宙に内在する神の愛の一つの表現であるー実際にはそうではないが、本質的にはそうである。しかしながら、教会は攻撃に身をさらしてきた。思考する人々の大部分はこのことを知っていたが、残念なことに、思考する人々は小さな少数派でしかなかった。

 テーマを明瞭にし、事実と可能性の輪郭をはっきりさせるために、次のような部分に分けることにする。そして、最も不愉快で論争を呼び起こすものから始めて、希望と目的とヴィジョンの音色を打ち鳴らすことで話を終えようと思う。


1 教会の失敗。誠実に、そして世界の出来事と照らし合わせて、あなたは教会が成功を収めたといえますか。

2 教会の機会。彼らはこれを認識しているであろうか。

3 人類が必要とし、直観的に受け入れている本質的な真理。それはどのようなものであろうか。

4 教会の再生。それは可能であろうか。

5 新しい世界宗教。



いかがでしょうか?

「教会の問題」についてテーマがしぼられ、ここからそれぞれについての考察がなされていきます。

最初にズバッと置かれている言葉に注目です。


この章の表題が示しているのは宗教の問題ではなく、次のような人々と組織の問題である。

つまり、宗教を教えようと試み、自分たちが霊的生活を代表し、人間の魂による神への霊的アプローチを方向づけ、霊的生活の規定を定める者であると主張する人々や組織の問題である。

先日の記事で述べた私が感じる宗教的なドグマというのは、「教会の独断的な教え、組織の一方的な考え」と換言できるかもしれません。

…と、この内容、かなりセンシティブなものだという認識はありますが、来るべき社会の反転に鑑み、こういったこともオブラートにくるむことなく、ハキハキと言葉に落としております。

明日はこの続きを。




みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!


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