明日17日の復活祭に際し、2年前の自身の記事を改めて読んでみました。
そして、キリストの磔刑と復活に対する考え方が変化しているなぁ、と感じた次第です。
当時の記事を(恥ずかしながら)一部、ここに再掲してみます。
2020年4月12日、今日はイースターです。
キリスト教を特に信仰しているわけではないので、ありきたりなことしかわからないのですが、
イースターはキリストの復活を祝う日、復活祭です。
そして、毎年日にちが変わります。
それは「春分の日を過ぎた最初の満月の直後の日曜日」に祝うからです。
今年の春分の日は3月20日。
その後の最初の満月は4月8日。
その直後の日曜日が今日、12日ということです。
有名な最後の晩餐は、イエスが弟子たちと共にとった、過越の祭りの食事です。
その後ゴルゴタの丘で磔刑死したのが金曜日といわれています。
そして3日後の日曜日にイエスは復活。
その後、日曜日ごとにイエスは弟子たちの前に姿を現したので
キリスト教徒は日曜日に復活の礼拝をする、と伺ったことがあります。
ひとつのイベントとしてのクリスマスが、圧倒的な注目を得ているのは誰もが認めるでしょう。
また、磔刑死したイエスは人類の罪を背負っていった…etc.
「磔刑」というひとつの経験は人類全体の痛みであるという思いの下、そこにはひとりひとりの様々な感情が織り込まれているように感じます。
が、私は、「イエスの復活」にもっと注目すべきであると思うのです。
イエスはご自身の復活を以てして、私たちが歩む道の先に希望という光を射して下さったのではないでしょうか。
確かに歩んでいく道は険しくとも、ゆらぐことなき志をもち、一歩一歩と歩を進めていくならば、必ず「復活」という光明にまみえることができる。
これを指し示して下さったのだと、私は考えます。
私は考えます…って、あぁ、そうですかという感じですが、この時点からの自分自身の大きな変化は、贖罪に対する考え方です。
ちなみに、これはキリスト教徒でないがゆえに発言できることです。
「イエスの十字架上での死」に着目しすぎると、ややもすると「贖罪のための犠牲」という論理にシフトするきらいがあるのでは、と思うのです。
そうではなく「イエスの復活」に重点を置き、そこから遡り、イエスがその生をもってして指し示した根源的な教え、生き方に着目したならば、磔刑死はその過程のひとつの経験に位置づけされるわけです。
「死」から「生」へベクトルの転換…ということでしょうか。
今日は、「春の3大祭り」の幕開けに際し、イエスの磔刑と復活に対する思いをひとりごちてみました。
★2022年の「春の3大祭り」は次のスケジュールです。
イースターの祭(復活祭) 牡羊座の満月:4月17日(日)
ウエサク祭 牡牛座の満月:5月16日(月)
人類の祭 双子座の満月:6月14日(火)
昨春に生活に彩を添えてくれて…あれから1年、気づけば今年も元気に咲いてくれました。
昨年は別の植木鉢を使っていたのですが。
今年は、それとはまた別の植木鉢で何かが芽吹き、何だろう?何だろう?と日を重ねるうちに、おぉ!あなただったのね!と。
まさに復活!
みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!
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