久しぶりにヨーガについてのお話です。
瞑想の目標についてはここで何度も登場しておりますが、今日も再び。
『魂の光-パタンジャリのラージャ・ヨガ経典』第二の書 スートラ45(217~218頁)より。
・・・・・ヴィジョンとして捕らえ、見て、接触し、知ったものを霊的人間がマインドを経由して脳に伝達する段階が訪れる。こうして、その知識は脳の内容物の一部になり、物質界で活用できるようになる。
この壮大な目標に向かって、日々サーダナを行っていくわけですが、その中にアーサナという坐位があります。
そのアーサナに言及されているのが、ヨーガ・スートラ第二の書、スートラ46から48です。
今日はその一部、私の心に留まった内容をご紹介させて頂きます。
が、その内容は、本筋とは少々かけ離れている点をあらかじめご了承下さい。
スワミ・サッチダ―ナンダ著、伊藤久子訳『インテグラル・ヨーガ‐パタンジャリのヨーガ・スートラ』、第二の書 スートラ47(257頁)より。
あることを誓ってそれを守り抜くということの裏にあるのは、自分が自分の心の支配者になるということである。心にいかなる斟酌も与えない、いったん誓いを立てたからには揺らぐことなくそれを守り通すー。ヒンドゥーの婚姻制度は、この理念の上に成り立っている。・・・・・・夫が飲んだくれでも悪党でも、妻は、「彼は私の<主>。<神>がこの人を私に与えられたのだ。彼がどのような人であっても、私はそれを受け入れよう」と言うのである。それは大いなる苦行である。「石くれであれ草であれ、その人はわが夫」という言い方がある。妻は、「私を適応させ、調整させ、受容させてください。彼と共に生きさせてください」と言うのである。そのようにして数多くの婦人たちが、彼女ら自身の<主>への信仰によって、罪深い夫たちを真の賢者へと変貌させてきたのである。
お読みになり、時代錯誤と感じる方もいらっしゃるかもしれません。
そういった向きもあるでしょうが、それはしばし横に置き、私の心に響いたのは、
「心にいかなる斟酌も与えない、いったん誓いを立てたからには揺らぐことなくそれを守り通す」という部分です。
何があっても自分に言い訳を与えない。
何があっても、です。
なんの例外もそこにはないわけです。
その強さがなければ、魂へつながる道のりは歩めないということなのでしょう。
これまた反省の日々であります。
が、思い新たに上を向いて今日も一歩!
みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!
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