今日は「教会の問題」についての2回目。
昨日の記事では、この問題を考察するにあたり、テーマが5つに分けられていました。
今日は、そのテーマのひとつめに入ります。
では、まいります!
アリス・ベイリー著『人類の問題』第五章 教会の問題、130~132頁より。
1 教会の失敗
次のことを覚えておこうではないか。キリストは失敗しなかったことを。失敗し、キリストの意向を妨げ、彼が提示した真理を卑劣な目的に供したのは人間であった。神学、ドグマ、教義、物質主義、政治、金銭が教会と神の間に巨大な暗雲を作り出したのである。教会は神の愛についての真のヴィジョンを見えなくした。私たちが立ち返らなければならないのは、この愛あるリアリティーのヴィジョンとその意味についての生きた認識である。
キリストのような信仰が復活するチャンスはあるであろうか。この時代を救済するヴィジョンー教会の発展や強化のヴィジョンではなく、人間の必要を満たすヴィジョンーをもつ人々が教会に十分な数いるであろうか。実際、このような人々はすべての宗教組織に存在するが、悲しいことに少数派である。彼らが団結しさえすれば(悲しいことに、教義の相違のためまだ不可能であるように思えるが)、あらゆる信仰の反動的な聖職者たちの組織的な権力、物質主義的な虚栄、既得権、狂信的な決定に対抗する、多少無力ではあるが、一つのグループになるであろう。真のヴィジョンを守り、それをやがて実現させるのは、通常、苦闘する少数派である(この場合は、霊的な傾向のある少数の人々)。彼らは、悶え苦しむ人類と一緒に焼けた悲惨な街角を歩き、教会の再生の必要性を深刻に感じている人々である。
現在、宗教を説く講演、説教、宗教に関する定期刊行物や雑誌は、再び神へと向き直り、現在の混沌とした状態から脱する道を宗教に見出すようにという訴えかけに満ちている。しかし、人類はこれまでにないほど、霊的な傾向を帯びており、霊的価値へと、霊的な再評価と認識の必要性へと意識的かつ明確に方向づけられている。この訴えかけは、教会の指導者たちに、すべての信仰の聖職者たちに、至るところの教会関係者に対して発せられるべきである。キリストに見られるような信仰の素朴さに立ち返らなければならないのは、彼らである。再生が必要なのは、彼らである。彼らにそれを誰が与えればよいのであろうか。
いかがでしょうか?
失敗したのはキリストではなく、キリストの意向を妨げ、彼が提示した真理を卑劣な目的に供した人間であった。
そして、神の啓示を伝える場所…と思われている(かもしれない)教会と神との間には巨大な暗雲が立ち込めている。
その暗雲を作り出したのが、神学、ドグマ、教義、物質主義、政治、金銭であるという。
そして、神の愛を分かつはずの教会は、神の愛についての真のヴィジョンを見えなくしたという。
なんとも、今の社会をそのまま映し出した言葉ではありませんか!
つまり、何度も申し上げておりますが、私たちは、長きにわたり、あらゆる改竄、改悪のなされた「社会ルール」のもとで生きてきたわけです。
だから、です。
来るべきあらゆる事柄の反転に向けて、
私たちが立ち返らなければならないのは、この愛あるリアリティーのヴィジョンとその意味についての生きた認識である。
「虚」であるはずの影が、あまりにも美しくて思わずパシャリ。
心象における美さの反転です。
みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!
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