top of page
  • 執筆者の写真Boo de 風

カトリック教会がその手法を変えたなら…。


「教会の問題」シリーズ8回目。

「教会の問題」を考察する上でしぼられている5つのテーマのうちの2つめ、「教会の機会」は今日で最後。

では、まいります!


アリス・ベイリー著『人類の問題』第五章 教会の問題、145~146頁より。

 新しい世界宗教がいずれ出現するのを妨げることは何ものにもできない。それは時代を通して常に存在してきたし、これからも常に存在するであろう。真理の提示に終わりはない。それは、光を求める人間の成長する要求に応えるために、展開し成長する。神のマインドの新しいインスピレーションに対して開かれたマインドをもち、偏見がなく親切で、純粋で熱誠に満ちた個人的な生活を送る、あらゆる教会の霊的な傾向のある人々によって、それは実施され、発展するであろう。一方それを妨げているのは世界のあらゆる宗教の伝統固執主義者たち、偏狭な人々、神学者たち、古い解釈と方法を捨て去るのを拒絶し、古い教義とそれらについての人々の考え方を愛する人々、そして、人間が窮地に立ち、飢餓と困窮に苦しんでいる今日に、形式、祭式と式典、儀式と虚飾、権威と石造建築を強調する人々である。

 ローマ・カトリック教会はこの点で、最大の機会と最大の危機に直面している。カトリック信仰は古代の伝統を土台とするものであり、聖職者の権威による独断に満ち、外的な形式と儀式に過敏で、― 広範にわたって効果的に博愛主義行為を行っているにもかかわらず ―その子供たちを自由にしておくことが全くできないでいる。もしカトリック教会がその手法を変え、人々の魂に対する権威(教会は本当にこれを本当に握ったことは決してなかったが)を放棄し、救世主、つまりナザレの謙虚な大工を本当に手本にすることができるならば、教会は世界奉仕を行い、そしてあらゆる宗教の信者とキリスト教のあらゆる宗派の信者を啓発するのに役立つ模範を示すことができるであろう。



今日も長く引いてみました。

いかがでしょうか?

今日の引用はすべて心に響くのですが、特にこちら。


もしカトリック教会がその手法を変え、人々の魂に対する権威(教会は本当にこれを本当に握ったことは決してなかったが)を放棄し、救世主、つまりナザレの謙虚な大工を本当に手本にすることができるならば、教会は世界奉仕を行い、そしてあらゆる宗教の信者とキリスト教のあらゆる宗派の信者を啓発するのに役立つ模範を示すことができるであろう。


つまり、教会はイエスを真の手本としてこなかった…ということですね。

時を同じくして再度読み進めている『キリストの再臨』には次にように書かれています。



アリス・ベイリー著『キリストの再臨』第一章 来るべき方の教理、23頁より。

キリストが再びやって来られなかった理由は、すべての国に存在する彼の信者たちが、必要とされる仕事を成し遂げ得なかったからである。彼の再臨は、後で述べるように、主に正しい人間関係の確立に依っている。これを、教会は何世紀を通じて妨げてきた。すべての人間をキリストに従う者としてではなく、「クリスチャン(キリスト教信者)」にしようとした彼らの狂信的熱心さ故に、これを助長し得なかった。神学的教義を強調し、キリストが身をもって顕示された愛を、愛ある理解を強調しなかった。教会はタルソに猛火のようなサウロ(パウロ)を説き、ガリラヤの優しい大工を説かなかった。それ故にキリストは待っておられた。


ここで、秘教におけるパウロの一評価を垣間見ることができます。

インパクトが非常に大きく、個人的には驚倒させられる内容です。

みなさんはいかがでしょうか?




早朝の一碧湖。

一昨年の2月の今頃、伊豆リトリートの際の一枚。



みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!



0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page