前回の記事で、『秘教治療』に記載されている「死」に関する内容をシリーズで投稿していく旨をお話致しました。
にもかかわらず。それなのに、ですが。
何故か今日は『魂の光』からの引用です。
これはどうしても書いておきたい…その思いに突き動かされてしまいました。
『秘教治療』のその後を楽しみにされていた方には申し訳ありません。
ではまいります。
『魂の光 パタンジャリのラージャ・ヨガ経典』317頁。
第三の書 スートラ35
(相反する対をなすものに関する)経験は、魂が個我とプルシャ(霊)を識別できないことから起こる。客観的な形態は霊的人間が使用(経験)するために存在している。このことを瞑想することによって、霊的性質に関する直観知覚が起こる。
ここでも原典を大胆に意訳しているが、この訳は正しい解釈を伝えている。
これまでのスートラでは、(識別と平静の実践を通して辿る)相反する対をなすものの間にある狭い道が平衡の道、バランスの道、高貴なる中庸の道であることを見てきた。このスートラは、この段階での魂の経験に対する注釈のようなものであり、次のような教訓を指摘している。
第一に、相反する対をなすものに直面したとき、私たちは自らの内に苦痛や快楽を引き起こすマインドの活動つまり姿勢を選択することが多いが、それは、私たちが低位と高位の性質、(肉体、情緒体、知性を通して機能する)個我と各人の内に見られる神聖な霊を識別できないためである。私たちは霊とではなく形態様相と同一化している。私たちは永劫にわたって自分自身を非自己と見なし、神の子としての私たち、父との同一性、そして私たちが実際には内在の自己であるという事実を忘れてしまっている。
この先に、第二、第三と指摘が続いていきますが、私はこの第一の指摘がとても心に留まりました。
そもそもです。
一般的には、たぶんこう書かれるのではないでしょうか。
「第一に、私たちが苦痛や快楽に直面したとき…」
が、そうでなくて、「相反する対をなすものに直面したとき、私たちは自らの内に苦痛や快楽を引き起こすマインドの活動つまり姿勢を選択することが多い」というのです。
感情の動きに直結するのではなく、その前に一過程があるわけです。
そしてまた、その一過程を経て、自分で選択したマインドの活動が感情を引きおこす。
ここでも二段階の過程を踏んでいます。
感情が高ぶったとき、それは悲しい、苦しい、辛いだけでなく快楽も然りですが、そういった時に、このプロセスを客観的に眺めることができれば、どれだけ穏やかであろうかと思うのです。
どうしようもない感情の渦に巻き込まれた時、このプロセスをふと思い出すことができるならば、アストラルの海に投げ出されることなく自身をコントロールできるかもしれません。
そして、です。
この一連の流れの原因としてこのように書かれています。
それは、私たちが低位と高位の性質、(肉体、情緒体、知性を通して機能する)個我と各人の内に見られる神聖な霊を識別できないためである。
最後に。
では、なぜ神聖な霊を識別できないのか?
その理由がこちら。
私たちは霊とではなく形態様相と同一化している。私たちは永劫にわたって自分自身を非自己と見なし、神の子としての私たち、父との同一性、そして私たちが実際には内在の自己であるという事実を忘れてしまっている。
そうですね。
長きに渡り、私たちは事実、というか真実に目を向けないように生きてきました。
目を向けさせないような環境がつくられてきた、ということもできましょう。
グリーフに向き合っていく活動上、今日の引用はとても心に響き、シェアさせて頂きました。
さぁ、今日も上を見上げて参りましょう!
みなさん、素敵な一日をお過ごし下さい!
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