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  • 執筆者の写真Boo de 風

「死」とは、「光へ入る」こと。

更新日:2021年2月1日


「グリーフ(という想念形態)を引き寄せるか否かは自分で選択できる」

これをゴールに据えて、現在「『ホワイトマジック』をグリーフの側面から読む会」を開催しております。

長距離マラソンのようなこの会が終了する際にゴールテープに書かれているであろうこの言葉の意味については、このブログに度々書いているので、ここでは割愛致します。


そして、「グリーフは、死別だけが原因となるわけではない」ということも、このブログにはかなりの頻度で登場する概念です。

が、今日は2冊の本からの引用をもとに、「死」にフォーカスしてみたいと思います。


まずは、こちら。

スワミ・サッチダ―ナンダ著、伊藤久子訳『インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガスートラ」178~179頁(サットヴァ、ラジャス、タマスという三つの特質を活用することで経験と最終的な解放が得られるという内容が書かれている第二の書、スートラ18)より


人生はすべて、過ぎゆくショーである。それを一瞬でも引き止めようとすれば、われわれは緊張を感じる。・・・・・われわれがそれを引きとめようとするときには、遮蔽物をつくる。そして結局はそれが、われわれに苦しみを引き起こす―・・・・・物事が通り過ぎていくのを受け入れるとき、われわれは自由である。


続いて少々長めの引用。

アリス・ベイリーの著、AABライブラリー訳『秘教治療(上)』427~428頁より。


 「光へと入る」ときに手助けができるかどうかは主に二つのことによって決まる。まず最初に、死んでいく人と見守る人の接触がどれだけ密接であり、その接触の最も強いレベルがどこであるかである。第二に、無執着になり、自分自身の感情との関係を絶ち、純粋な非利己的意志の行使を通して、死にゆく人と同一化する能力である。二人のつながりが純粋に情緒的もしくは物質的での関係であれば、これは全くできることではない。接触はそれよりも深く、また強くなければならない。それはすべての界層での個人的な接触でなければならない。魂として、そしてパーソナリティーとして真に接触しているならば、ほとんど問題はない。しかし、これは稀なことである。とはいえ、私はここであなたに一つのヒントを与えた。

 また、見守る人は明確な思考作用をできる限り最小限にすべきである。今のところ求められ、そしてできることは、死にゆく人を愛の常に深まっていく流れへともたらすことだけである。死にゆく人がそれまで閉じ込められ、生きている間その中で働いてきた外衣を脱ぎ捨てるのを、知的な概念(それがどれだけ高いものであれ)を通してではなく、創造的な想像力の力を通して手助けしなければならない。そのためには純粋な忘我の行為が必要であるが、それができる人はまだわずかである。ほどんどの人は恐怖心に、あるいは愛する人を引き戻したいという強い欲求に押し流される。・・・・・あなたが助けたいと思うすでに光の中へと入っている人々を、愛を抱いて見守りなさい。・・・・・彼らを引き戻そうとしないようにしなさい。



Boo de 風のグリーフサポートは非常に厳しい側面があります。

目の前の方が、グリーフの道のどこに立っているのか。

これを最重視しつつ、しかし、絶対にしてはいけないこととしてお伝えするのがこの言葉です。


「愛する大切な人を引き戻そうとしてはいけない。」


どうしたら、何をどうしたならば引き戻せるのだろうか。

しかし…肉体という鎧を脱ぎ捨てた後も、本人がすべきこと、進むべき道があるのだから、私の思いでそれを邪魔する様なことは断じてしてはいけない。


この言葉にならない思い。なんとアンビバレントな…。

そのアンビバレントな思いを個人的にも味わい尽くし、認識した上で、それでもこの厳しい言葉をお伝えします。


彼、彼女を大切に思ならば、否、思うこそ、自分の人生をしっかりと歩んで行きましょう。

これが、冒頭で申し上げた言葉につながるのです。

「グリーフ(という想念形態)を引き寄せるか否かは自分で選択できる」

自分のグリーフは自分が手綱を握ることができると知り、自分の意志によって実際にそうしていく。

そうすることで、「光へ入って行った大切な人」から「自分自身」へと軌道修正していくということ。

こうして自分も自身の光につながる階段を上がっていくということ。


上記二冊の本を併読しながら、改めて「死」に思いを馳せてみました。


さぁ、今日も空を見上げて深呼吸!





みなさん、今日も素敵な一日をお過ごし下さい!


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